相州二宮落花生ヒストリー
日本の落花生の歴史は湘南にのみやから始まった!
二宮の落花生は明治5年(1872年)、横浜に蚕の種を買いつけに行った二宮の先人二見庄兵衛氏が、外国人から「南京豆」を数粒もらって栽培したのが始まりです。
2年ほど前には、大磯町の渡辺慶次郎氏も落花生を始めているのも奇遇です。
二見庄兵衛氏が最初に自分の畑にまいたときは、芽が出、葉が開き茎がサツマイモのように地をはい、黄色の花が咲き、秋になって花が落ちても実がならない、これは失敗とあきらめて畑を耕したところ、土の中からたくさんの莢(さや)実がついていました。南京豆は根に実がなることを初めて知ったのです。
そしてこの栽培を近隣に広め、明治15年には茎が立っている立ち落花生(現在の落花生)を発見しました。
二見庄兵衛氏が発見したこの立ち落花生は、収穫しやすく、味がよいため、食用、搾油、食品加工の関係にも広まり、二宮の落花生の生産は大いに高まりました。明治41年には長野県主催の1府10県連合共進会において、農商務大臣から追賞され銀杯を受けました。その後の改良・育成・普及は目ざましく、落花生の生産は、県内のみならず千葉・埼玉・茨城・栃木など県外に広まりました。
大正期になってからは、横浜からアメリカ方面へ輸出されるようになり、二宮駅は落花生の集散地となったのです。その品質管理、技術指導をするための落花生検査所ができ、さらに、穀物検査所に吸収され県に移管されるまで、大きな役割を果たしました。
盛況を極めた二宮の落花生も、昭和12年(1937年)の日華事変を境にしてアメリカへの輸出が減り、ついには第二次世界大戦とともに輸出は皆無となりました。
戦中戦後の食糧難の時代には、農産物の主食への切り替えにより、落花生の生産は中止され、変わってサツマイモや麦などの穀物の生産が行われるようになりました。
戦後の落花生生産ははかばかしくなく、徐々に秦野盆地の方へ栽培の中心が移っていき、今では、千葉県など他県のものも移入し、加工・販売されるようになりました。
しかし、長年にわたって培われた製品としての二宮の落花生は、今も町内に5軒の加工・販売の専門店があり、その味の良さでは根強い人気で、神奈川県の名産百選にも指定され、全国に知られています。
銀杯の写真
渡邉商店さん所蔵の銀杯の複製です。
明治からの製法をそのままに、落花生の製造工場は湘南にのみやにして富岡製糸場の工場の雰囲気をそのままに現在も息づいているのに驚かされます。
軽便鉄道
現在の県道71号線(秦野二宮線)の旧道はかつて(100年前!)、このような鉄道が走っていました。バックトゥーザフューチャーに出てきそうな汽車、速度はとても遅かったと聞いています。
軽便鉄道100周年を記念して、二宮町、中井町、秦野市で過去に駅があったところにこのような説明文が設置されています。